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枯れないように

枯れないように、燃え尽きないように。

賞賛を望まない人生

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今までの人生を振り返ると、私はいつもいつも、他人からの賞賛を望みながら生きてきたような気がする。

学校のテストで上位に入っていたのは、親や先生から褒められたかったからだし、進んで休日出勤をしていたのは、上司に頑張りを認めてほしかったからだ。

オシャレをするのも、ダイエットをするのも、おもしろいことを言おうと必死こくのも、コミュ力鍛えるのも、全部誰かに認めてほしいという欲求からだったと思う。

 

人付き合いでも「相手から嫌われないためにはどうしたらいいのだろう」「この人に好かれるにはどういう態度が効果的?」「こういう悩みを相談されたときの対応は…」ということを悩んだり、そういう類いの本を買って読むことも多かった。

 

でも、そうやって生きていくうちに、段々と自分はこのままでいいのだろうかと悩むようにもなってきた。

というのも「賞賛されたい」「認められたい」という欲求を満たそうとすると、不都合が生じることが多くなってきたのだ。

 

結婚して1年半、夫と一緒に生活をしていて気づいたのだけれど、私が「賞賛されたい」と思うとき「自分をちゃんと見ていてほしい」という願いも孕んでいる。

 

・・・いや、逆だ。

・・・いや、逆とはまた違う。

要するに、

「自分をちゃんと見てくれてないから、頑張っても褒めてくれないんでしょ」

「どうしてこんなに頑張ってるのに理解してくれないの」

「このわからず屋><。」

「こんなに尽くしてるのに報われない><。」

ってやつ。

 

端折るけれど、我々夫婦が喧嘩をするとき、私がいつも思うのが「どうして私のことをわかってくれないの?」だ。

 

夫はわかってくれていないわけではない。

ただ、他人同士、意見がすれ違うことは当然あるし、生活リズムがそろわずに色々と調子が狂うこともある。

だけど、私を理解してくれていないわけでは決してない。

喧嘩が起きてしまうのは当然のことで、そこに私の事情への理解度は関係ない。我が家の場合。

 

段々と思うようになってきたのが、私が常々「褒められたい」と思ってきた是は、その中に「誰かをコントロールしたい」という欲求も内在していたのではないかということだ。

「自分を見てよ」「私を理解しなさい」は、言い換えれば「お前は俺のいうこと聞いてればいいの」みたいなものだ。

 

そういえばテスト勉強を頑張っていた頃も「私が1位になったらクラスのみんなは私に屈服しやがれよこの愚民ども」とか何とか思いながら、教科書を広げていたような気がする。

 

仕事もそうだった。

他人から褒められたくて、まるで自分がないような生き方をしてきたような気でいたけれど、結局は他人をコントロールしたい、どこぞのペテン師みたいな生き方だったんだなーと思った。

 

結局なんか文章がまとまらなくて途中放棄してツイキャス聴きにいっちゃうけれど、賞賛されたいという思いが、色々と不都合を生み出しているっていうのは多分自分の中では正解だし、そんなんだったら、もう「いいね!」なんて「いらないね!」な〜んて、思ってみている次第でござる。